琅琊榜

毒蛇1 『祁王』 (『琅琊榜』#1~5 補完)

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誉×蘇に目覚めてしまいましたw
困ったもんだwww


 『麒麟の才子を得る者、天下を得る』

 皇位から遥かに遠かった北燕の第六皇子が、その麒麟の才子とやらを得て皇太子の座を手にしたという。
 ならば、と誉王は思った。
 父皇の覚え目出度きわが身を皇位につかせるなど、麒麟の才子にとっては雑作もなきことのはずだ。
 朝廷での人脈に通じ、父に寵愛され、多少の才覚もあるつもりだ。生母の身分こそ高くはなかったが、生母亡きあとは皇后手ずからの養育を賜った身である。太子にとって替わるに何の不足があろうか。
 麒麟の才子を太子の手に渡してはならぬ。なんとしても己が手中に収め、共にこの国の頂きを目指すのだ。
 既に、太子側も動き始めているのだから。




 ついに、姿を現した。
 自分も、太子も、じりじりして待っていたのだ。
 霓凰郡主の比武招親を目的とした、武芸大会の初日である。午後になって、ようやく『麒麟の才子』が会場の迎凰楼へと現れたのだ。
 闘技場を隔ててはるか向こうの桟敷席に、簫景睿や言豫津と共に座に着いたすらりとしたその姿は、遠目にもその品格が見て取れた。
 (あれが蘇哲―――、梅郎か)
 用意された膳の前に座る仕草も優雅で、子供のような年若い従者に自分の膳を与えてやるさまも好ましかった。
 太子が一足早く立ち上がった。
 「退屈ゆえ―――散歩でも?」
 いつもの癖で、一言皮肉を言ってやったが、太子もまた、
 「お前も座っておれぬのだろう」
と切り返してきた。
 ―――もう、待てぬ。
 太子と牽制しあっている場合ではない。一刻も早く、かの才子とまみえ、言葉を交わしてみたかった。

 太子と連れ立って、梅郎の桟敷を訪れる。
 早速、景睿に梅長蘇の紹介をせっつく太子を、誉王は軽くいなした。
 「紹介も何も、蘇先生だろう?」
 がつがつして見えてはよくない。隣にいる太子と同類と思われては、片腹痛いというものだ。
 誉王は、言葉を尽くして、梅長蘇と、渠がとりしきる江左盟とを称えて見せた。
 しかし、梅長蘇は穏やかに微笑した。
 「私は蘇哲と申し、江左盟とは無関係です。何かの間違いでは?」
 誉王の世辞をやんわりと拒んだ梅長蘇に、太子がここぞとばかり媚びを売る。
 「身体の弱い先生に立ち話は酷だ。蘇先生、[[rb:請座 > チンヅォ]] 」
 太子の言葉に着座する様子の、なんと美しく慎ましやかなことか。
 なにがなんでも手に入れたいと思った。太子などに渡してなろうものか。

 子供のころから、美しいものが好きな性分であった。
 小さな石のかけらから人間に至るまで、美しければそれだけで手に入れたくなった。
 それゆえに。
 長兄を慕った。
 母親譲りの美貌を備えた兄は、美しく、賢く、そして優しかった。
 まだ子供であった誉王は、兄の歓心を買おうとさまざま努力したのだ。褒められたい一心で文武ともによく学んだ。母后から珍しかなる菓子を賜れば、自分は食べずに兄のもとへ持っていった。
 しかし、である。
 兄の寵愛は、どういうわけか、常に七弟・景琰に向けられていたのだ。
 決して兄が自分をないがしろにしたわけではない。そうではないが、七弟を可愛がる兄の姿は、自分たちほかの弟に対するものとはどこか違っていた。長兄の母妃が、七弟の母親を妹のごとく可愛がっていたせいもあったやもしれぬ。長兄はいつも七弟を気にかけ、そればかりか、臣下の身分である従弟にまでも目をかけた。
 (なにゆえ、わたしではないのか)
 あらゆる点において、自分は七弟を越えているはずだ。従弟は才気煥発な子供ではあったが、所詮は武門の跡継ぎである。
 それなのに、なぜ。
 もう長い間思い出したこともなかった遠い日のことどもが、なぜか頭を巡った。
 ([[rb:兄長 > ションチャン]]―――)
 誉王は、自分の手に目を落とす。
 この手で兄に、引導を渡した。
 あの日、誉王は、とりかえしのつかぬ傷を心に負ったのだった。

 あの長兄ほどの人物には、もう二度とまみえることもあるまいと思っていたのだ。
 だが。
 その優雅な物腰と、知的で涼やかな美貌に、誉王は目を奪われた。
 今度こそ、手に入れたい、そう思った。
 隣に座した皇太子は、いじましいほどあからさまに梅長蘇に媚びを売っている。一国の皇太子ともあろう身で、なんとさもしく意地汚いことか。
 血を分けた兄とはいえ、皇太子・簫景宣は誉王の眼から見ても凡庸で卑しく、かつて誰もが憧れた長兄・祁王とは雲泥の差である。このような男に『麒麟の才子』は勿体ない。
 誉王は出来るだけ鷹揚に振る舞った。
 ひょっとするとこの時すでに、『麒麟の才子を得る者、天下を得る』などというご託宣のことは、すっかり誉王の頭から抜け落ちていたのかもしれない。ただ、目の前の慎ましやかな男を、どうにかして喜ばせたいと思ったのだ。

 高名な儒家である黎崇の直筆の書があると言うと、梅長蘇は思ったとおりその眼を少し輝かせて身を乗り出した。梅長蘇はかつて、黎崇の教えを受けたことがあると、誉王はすでに聞き及んでいたのだ。
 「『不疑策論』も?」
 「あるとも」
 自分には少々難しく、宝の持ち腐れに思えた書物だが、この男と語り合えるならばどんなに楽しかろうと誉王は思った。琅琊榜首のこの男ならば、自分が充分に理解できなかった部分も、たやすく読み解いて聞かせてくれることだろう。かつて、長兄がそうであったように。
 話したいことが沢山ある。尋ねたいことが沢山ある。それなのに。
 (ああ、煩い)
 横合いから茶々を入れてくる皇太子が煩わしかった。なんでもかんでも、上げ足をとっては下世話な金の話に結びつける。貴き身分であるはずの身で、なんとはしたないことだろうか。
 そんなことにはもうとうに慣れていたが、今は迷惑この上もなかった。
 自分はただ、この美しい才子と話がしたいのだ。下等な人間に余計な口を挟んでほしくはなかった。




   * * *




 ひどく疲れていた。
 皇太子や誉王との対面は、覚悟していたことだ。渠らに自分をどう見せるか、もう充分に練ってきたのだ。その第一幕は、まずまずの出来栄えだったと言っていい。
 それよりも梅長蘇をひどく消耗させたのは、太皇太后や霓凰との再会である。愛する人々の前で己を偽るのは、渠の考えていた以上に過酷な作業であった。
 疲れ果てて太皇太后の前から退いた梅長蘇を、霓凰はまだ解放してはくれなかった。
 霓凰とふたり連れだって皇宮の中を散策する羽目になり、おかげで太監からひどい仕打ちを受けている奴婢の子供に出くわすことになった。
 そして、こともあろうに。その子供を助けようと現れたのが、十二年もの間、夢にまで見た友、景琰その人であったのだ。
 (景琰……)
 霓凰や太皇太后に対するものとは違う、景琰への感情は梅長蘇にとって特別なものであった。
 聡明で美しかった従兄・祁王、その弟にして、自分と年の近いこの景琰、そして自分『林殊』、三人で過ごした時間を、梅長蘇は片時たりとも忘れたことはなかった。『林殊』にとって、祁王と景琰は、血のつながりや主従の絆を超えた特別な存在だったのだ。
 景琰と宦官との短いやりとりから、いま景琰の置かれている立場のよるべなさが知れる。むろん、それは予め承知していたことだが、こうして目の当たりにするとやはり胸が痛んだ。
 それでも、景琰は特に意に介する風もない。武人らしい逞しさ、ふてぶてしさが頼もしい。
 それよりも、景琰が助けようとしたその子供に、梅長蘇は目を引かれた。
 (兄長……)
 祁王・景禹。
 もっとも年長の従兄であった人だ。

 一目で梅長蘇は、その子供の顔にかの人の面影を見てとった。
 従兄とはいえ、相手は皇子である。それでも、林殊は渠を「兄長」と呼び、その弟を「景琰」と呼んだ。子供であるがゆえに大目に見られているだけで、近い将来そう呼ぶこともかなわなくなると知りながら。
 大渝を退けて戻ったら、改める気でいたのだ。
 十九はもう、子供ではない。少帥などと呼ばれて軍の指揮を任され、それでも子供を通そうというのは虫が良すぎる。
 北方から帰ったら、祁王に、景琰に、臣としての誠を改めて誓おう。そう思っていた。
 景琰は、遠征先から真珠を持ち帰ると言っていた。友情の証だ。その真珠を差し出されたら、膝まづいて恭しく受け取ろう。そして捧げるのだ、永遠の忠誠を。
 そう思っていたのに。

 祁王はもう還らない。
 そして自分は、変わり果ててしまった。

 景琰は。
 あの頃よりどこか寂しげで、黒目がちの大きな眸は深い悲しみを湛え、頑なな空気を纏ってはいるが、それでもやはり景琰だ。
 父を失い、七万の同胞を失い、主君となるべき祁王を失い、かつての己をも失った。それでも、ここに景琰がいる。景琰だけは、十二年を経ても穢されることなく、ここにある。
 穢されずに長い年月を耐えることは、景琰にとってどれほど過酷であったろう。真っ直ぐで清らかな、誠実な魂を保ち続けるのが容易くはないことを、梅長蘇は充分察する。幾度となく傷ついたことだろう。けれど、どれほど傷つけられても、景琰は誇りを守り抜いてきたのだと、一目で知れた。

 そして、景琰の庇うこの子供に宿る面影。
 祁王と、景琰と、自分と。
 三人で過ごした幸せな時が、不意に戻ってきたかのような錯覚にとらわれる。

 景琰と霓凰が話す間に、梅長蘇は子供に尋ねた。
 名は庭生―――。
 齢は十一だという。
 そこまで答えた庭生を、景琰が制した。どこの馬の骨とも知れぬ男に、軽々しく素性の糸口を与えてはならぬというわけだろう。
 しかし、間違いない。
 庭生は亡き祁王の忘れ形見なのだ。

 「何者だ」
 景琰の冷たい声が胸を刺した。
 霓凰の紹介を受けて、官位無き身であるとへりくだると、景琰は皮肉げに言った。
 「皇宮で郡主と一緒に歩くなど、只者ではないな? 戦地にいると情勢に疎くなる」
 とりつく島もないような物言いだった。
 可哀想に、こんなふうに全身を鎧って生きてきたのだと思うと切ない。
 が、反面、さすがは景琰だと思って、可笑しくもなる。兄王たちとは違う。
 太子や誉王の、自分に対する媚びようといったらなかった。『麒麟の才子』などという鳴り物入りで、さんざん勿体つけて姿を見せただけの効果は覿面だった。殊に、誉王のあの熱の入れよう。

 ふと、梅長蘇は思った。
 誉王とは、あんな男だったのだろうか?
 あんな顔で、あんな声で、あんな仕草で?

 『誉王? ああ。あれは毒蛇だよ』
 少年だった自分は、得々として景琰にそう言ったものだ。
 高慢で、いつも居丈高なくせに、どこか卑屈な眼をして他人を窺う、卑しい男だと思っていた。
 だが、さっき自分に向けてきた誉王の、あの真摯な眼差しは?

 梅長蘇は軽く頭を振った。
 誉王は、『麒麟の才子』という餌にかかっただけだ。
 それに比べてどうだろう、わが友・景琰の高潔なことといったら。
 景琰を押し立て、祁王の面差しを受け継ぐこの子を守って行きたい。命のある限り。

 梅長蘇は、疲れた身体の奥に、静かな興奮を押し隠した。



   * * *



 初対面のあの日は、太皇太后と霓凰郡主に持っていかれた格好で、結局あのあと梅長蘇と顔を合わす機会も持てなかった。
 武芸大会二日目の観覧には、梅長蘇は姿を見せなかった。病弱だと言うから、そう繁々とは出かけぬのであろう。
 誉王はなんとなくがっかりしたが、梅長蘇への礼物は贈り続けている。太子と競って、というのが正直なところだが、それ以上に誉王は渠の喜びそうなものを考えるのが楽しくてしかたがなかった。
 太子などにはわかりはすまい。麒麟の才子にふさわしい品など。
 幸い、梅長蘇が身を寄せている寧国侯府は、誉王に心酔する謝弼の住まいである。梅長蘇はたやすく礼物を受け取ってはくれまいが、謝弼がうまく立ち回ってくれれば、あるいは心動かすこともできよう。

 武芸大会の目的が霓凰郡主の比武招親であるからには、勝ち残った者が郡主の婿となる可能性は高い。最終日のあと、試合に勝ち残った上位十名による文試が行われると言う。文試の採点は、ほかならぬ梅長蘇に委ねるというのだから、父皇もなかなか侮れぬ。誉王としては、自分の息のかかった忠粛侯府の瘳廷傑を売り込みたかったのだが。果たして梅長蘇の評価はいかに。
 (正直なところ、瘳廷傑ごときでは、あまり分が良いとは言えぬな)
 とはいえ、太子の推す太尉府の司馬雷とて、大した器ではない。
 そして、肝心の武芸大会は、北燕の使者が伴ってきた百里奇なる男が制した。
 近年、北燕との関係は良好だが、郡主が北燕に嫁ぐとなれば北燕の勢いは増し、災いの種となるのは火を見るより明らかである。なんとしても阻まねばならぬところだが、生憎、父皇にも自分にも妙案はなかった。当然、太子にも、である。

 そして今日、宴席が設けられる。文試に進む十名を父皇が謁見するという名目だが、実際は郡主がいくらかでも楽に戦えるように、理由をつけて百里奇と梁の者を戦わせ、多少なりとも痛手を与えるためのものである。
 だが、それでなんとかなるとは、誰も思ってはいない。皆が不安を抱えたままで、宴の日を迎えたのである。

 そうして。
 その宴に梅長蘇その人が姿を見せた。
 (梅郎―――)
 誉王の目は、またしても梅長蘇に釘づけとなる。
 質素ななりではあるが、皇帝を前にして、梅長蘇は少しも怖じるところがなかった。
 午前に進み出て拝礼する姿の、なんと清々しく、堂々として、気品にあふれていることだろう。
 (……兄長)
 やはり、その人を思った。

 父皇から正式に文試を任せる旨を申し渡され、官職はなくとも客卿として待遇する、と郡主の隣に席を設けられた梅長蘇は、悠々と着座した。
 決して才を誇った傲岸なふるまいをするでなく、慎ましく控えめな態度でありながら、その凛とした風情はいやがうえにも目を引いた。
 誉王は満足した。どうだ、これが私の『麒麟の才子』である、とその場の全員に自慢したいほど、際立った美しさである。

 この梅長蘇が同席するならば、と誉王は思う。
 必ず何か、善き策が講じられるのではなかろうか。
 『麒麟の才子』の名が紛い物でないことが、おのずと証明されるはずである。

 誉王は立ち上がり、声高に提案した。父皇が期待する役回りを、自ら演じたのだ。
 「単に座しても面白みに欠けます。皆選び抜かれた勇士ゆえ、この宴席で再び腕を競わせては?」
 それを。
 事もあろうに異を唱えようとする愚か者がいた。
 太子である。
 「朝堂で勝負などもってのほか。何より父上の御前である」
 誉王は内心、呆れた。この男、莫迦ではないのか、と。この宴席の主旨が少しもわかってはおらぬのだ。当の太子は、弟の提案に水を差したことで得意満面である。
 たしなめてやりたかったが、他国の使者まで同席する中、目上の太子に面と向って反論することも憚られる。父皇が一言言えば太子も引くには違いないが、それでは皇帝自らがこの余興を命じる形になり、あまりに意図があからさまであろう。
 どうしたものか、と誉王が焦れたとき、目の端に梅長蘇の姿が映る。梅長蘇が太子に向かって、わずかにかぶりを振って見せたのだ。
 それはほんの一瞬のことだった。たまたま太子と目のあうその瞬間に、梅長蘇はただ雄弁な眼差しを以て、太子をたしなめたのだ。
 梅長蘇の目くばせを受けて、太子が一瞬言葉を途切れさせる。次の瞬間、正しく場の空気を読んだのは、さすがと言おうかやれやれと言おうか。兎にも角にも、太子は己の言をその半ばで巧みにすり替え、誉王の提案を是としたのだ。

 父皇は息子二人の言葉に満足し、目論見通り宴席は余興の腕比べへと流れる。
 太子は失言すれすれのところを梅長蘇によって救われた恰好だが、果たして梅長蘇の真意はどこにあっただろう。渠の目くばせによって救われたのは、ひとり太子のみではない。提案した自分も面目を施し、父皇も自分の口から指図することなく、望む展開を得た。

 やはり賢い男だと思った。

 従弟の景睿が、百里奇に挑む。
 景睿は誉王にとって叔母にあたる莅陽長公主が、寧国侯・謝玉との間に設けた長子である。が、同時に江湖の猛者である天泉山荘荘主・卓鼎風の息子でもあるという複雑な側面を持っている。それゆえに、景睿の剣の腕は卓荘主仕込みのなかなかのものだ。百里奇には及ぶべくもないだろうが、うまくすれば一太刀くらいは負わせられぬものでもあるまい。
 皆が固唾をのんで見守る中、ふと梅長蘇へ目をやって、誉王は少々驚く。
 梅長蘇は、景睿と百里奇を見てすらいなかった。目の前に積まれた蜜柑を、なんとも幸せそうな表情で黙々と剥いているのだ。

 不思議な男である。
 賢く、品よく、凛としていながら、呑気に蜜柑を頬張る姿はどこか愛嬌があった。
 しかし―――、と景睿へ目を戻しながら、誉王は少しほっとしていた。
 (実に美味そうに食べているではないか)
 たった二日姿を見ぬだけで、実はひどく気にかけていた自分に気づく。いかにも食が細そうな、と初対面の時に思ったのだ。従者の少年に自分の膳を与えていたのも見た。あれから試合会場に姿を見せぬのは、体調でも優れぬのではないかと、頭の隅で気にかかっていたのだ。
 (蜜柑が好物ならば、次の礼物はそれにしよう)
 そんなことを思ううちに、丸腰で苦戦する景睿に得意の剣を使うことが許され、腕競べはますます白熱している。景睿はまた腕を上げたようだ。誉王もまたひととおりの武術を学んではいたが、もう景睿にはかなうまい。
 その景睿の善戦もむなしく、ついに百里奇にはかなわなかった。

 ふと視線を移すと、梅長蘇はやはり美味そうに蜜柑を食べている。
 なんとなく拍子抜けしてしまう。
 当事者の霓凰郡主は涼しい顔をしているし、頼みの綱の梅長蘇はまるで他人事だ。おまけに二人は皇帝と北燕の使者が言葉を交わす間、時折親し気に顔を寄せ合っては何事か囁き合っていた。
 案の定、父皇がそれを見とがめる。問い質されて、霓凰が言う。梅長蘇が、百里奇の弱点をつけば数人の子供でも斃せると話していると。
 梅長蘇が世に名高い才子であることは誰もが認めようが、どこから見ても武芸をたしなむような男ではない。剣すら持ったこともなかろう書生の当てずっぽうの推量など、果たして聞く価値があろか。

 が、そう思いつつも、誉王は大きな期待を寄せる自分に気づいている。

 この男ならば。
 やってのけてくれるのではないか、と。



   * * *



 鬼神も破れぬ『凌虚幻影』などという伝説の剣陣が、今の世に伝わるはずもない。
 本物かどうかなど、関係ないのだ。
 それらしく見えさえすればよい。
 幸い、三人の子供は呑み込みがよかった。
 飛流の手本通り、教えられた型を忠実に覚えてゆく。

 「[[rb:来 > ライ]]」
 子供たちを手招きすると、奴婢の身分に慣れた子らは、深々と頭を下げて礼をとりながら小走りにやってきて膝まづく。
 「[[rb:起来巴 > チーライバ]]。ここではそのような礼は無用と言っているだろう?」
 そう声をかけてやると、子供たちはおずおずと顔を上げ、互いに目と目を見合わせた。
 「黎綱」
 梅長蘇は黎綱の手から菓子盆を受け取る。
 「菓子を食べて、少しのんびりするといい。夕餉までにまだまだ鍛錬してもらうことになるゆえ」
 三人の子供に、等しく菓子を与える。子供たちは眼を輝かせてそれを受け取った。飛流も自分の分け前をもらってご機嫌な様子で、子供たちに混ざる。
 回廊の端に腰かけておいしそうに菓子を頬張る四人に、梅長蘇は目を細めた。
 庭生が顔を上げてにっこりする。虐げられて委縮していた子供らが、菓子ひとつでこんな満ち足りた顔をするのを、いじらしいと思う。
 あの食いしん坊の飛流でさえそう感じるのか、自分の分を一番小さい子に分け与えているのがほほえましい。

 口元についた菓子のかけらをつまみとってやると、庭生はちょっとびっくりしたような眼をして、それから嬉しそうな笑顔になった。
 さまざまな表情を見るにつけ、亡き従兄にやはりよく似ていると思う。
 自分も庭生の隣に腰かけて、梅長蘇はつい庭生の頭を軽く撫でた。

 特別な情けをかけてはならぬと思う。掖幽庭から救い出してはやりたいが、この子は市井に生かしたい。皇宮の生臭い風にさらしたくはないのだ。皇族などでないほうが、きっとずっと幸せに生きられるだろう。
 そう思うのに、気持ちのどこかで肉親の情が疼く。この子には自分と同じ、簫家と林家の血が流れているのだ。

 (この子が大人になるまで、見守ってやることはかなわぬ)
 ……景琰に、それが出来るだろうか。いずれこの手で皇帝へと押し上げる景琰に。

 江湖に生きる『梅長蘇』だからこそ、してやれることがあろうというのに。
 (見届けてはやれぬ)

 口惜しさが、胸に広がる。
 景琰に託すしかないのだ。


 その景琰が、この雪蘆を訪ねてきたのは、つい先刻のことであった。
 旧友の訪れに梅長蘇の胸は弾んだが、景琰の態度はひどく冷たかった。
 この蘇哲が『麒麟の才子・梅長蘇』であること、そしてまた既に皇太子や誉王と接触があったことに不快感を露わにした。
 麒麟の才子が、太子か誉王いずれかの策士として収まることを決めてかかったその物言いに、梅長蘇は少なからず腹立ちを覚えた。
 「江左の梅郎は奇才だと郡主に聞いたが、一介の謀士に甘んじるとはな」
 軽蔑したように鼻で笑った景琰に、つい一言返したくなる。
 「謀士のなにが悪いので?」
 やんわりとそう言い返す。
 「信頼され、大業を成し、功績を残せば廟堂に祀られ、後世に名を遺す」
 そう言ってやると、景琰は幾分鼻白んだ様子だったが、それでも逆に問い返してきた。
 「ならば、先生は皇太子と誉王のどちらを選ぶ?」
 蔑みと苛立ちの入り混じった眼差しでそう尋ねた景琰に、梅長蘇は心に立つ波を抑えて毅然と答えた。
 「[[rb:我想选你 > ウォシャンシェンニー]]」

 その途端、大きく目を見開いた景琰の表情が可笑しくて、笑いだしそうになるのをこらえた。
 さっきまで背中の毛を逆立てて皮肉を並べ立てていた景琰が、無防備に驚く顔が愛しい。そういう顔をすると、少年の頃のままだった。
 「[[rb:选我 > シェンウォー]]!?」
 笑いだしたのは景琰のほうだった。
 自分は何の後ろ盾もないただの群王であると嗤う景琰が悲しい。そうやって、自分を誤魔化してきたのだろうと思うと、胸が痛んだ。
 祁王亡き今、この国を任せられるのは景琰ただ一人だというのに。
 それでも自分は『林殊』ではない。『梅長蘇』が『靖王』を選ぶのは、『ほかに選択肢がないから』であり、自分の才覚を誇示するためでしかありえない。
 けれども、本気で靖王を支える覚悟があることだけは、伝えておかねばならぬのだ。でなければ、景琰の心は動かせまい。 
 ただ、想いをぶつけるしかなかった。梅長蘇という偽りの仮面をつけたままで。

 「殿下。本音を言ってください。本当に玉座をあの二人の手に渡してよいと?」
 決して軽々しい気持ちで話を持ちかけているのではないと、それだけは景琰にもわかってもらえただろうか。
 「皇位は私にとって遠い雲のごときもの。だが、皇太子と誉王を阻めるなら代償は惜しまん」
 景琰は毅然としてそう言った。
 長い間、沈黙を守ってきた景琰の本音を、梅長蘇はようやく引き出したのだ。

 しかし。
 庭生を救うのは手土産変わりだと告げた梅長蘇に、景琰は言ったのだ。
 「だが、わたしが忌み嫌うのは、先生のごとく計算高い人間だ。私を皇位につかせても、栄華は保証できぬぞ」と。

 梅長蘇の胸を、言いようのない喜びと悲しみが去来した。
 景琰の変わらぬ潔癖さへの安堵と、そんな景琰が最も嫌う男を演じねばならぬ苦痛。
 誰よりも睦んだ友から、蔑まれ、嫌われる。

 ふと。
 誉王の影が、脳裏をかすめた。
 かつて自分があれほど忌み嫌った男。今の景琰が自分にそうであるように。
 その誉王がいま自分に向ける眼差しは崇拝と労りに満ちている。
 (……同類だからか?)
 梅長蘇は苦笑した。
 同類になり果てたのか、あの毒蛇と。
 そう思うと可笑しくて涙が出そうになった。


 梅長蘇は、傍らの庭生の背を、そっと撫でた。温かい背中だった。
 (兄長……。わたしに今しばらく力を与えてください)
 全ての苦痛と誘惑に耐える力を。
 景琰の軽蔑に。
 誉王の崇拝に。

 『小殊―――』

 亡き従兄の、快活に笑う声を、聞いた気がした―――。


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