琅琊榜.風中の縁

蒼き狼 3 (『琅琊榜』『風中奇縁』)

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藺循、つづきです。

 初老の女が、手燭を掲げて薄暗い階段を下りてきた。 
 「よいざまだこと」
 手燭の明かりで、女は両手を縛りあげられた莫循の顔を照らした。
 「男のくせに、靖王殿下の妻になろうとは、なんと身の程をわきまえぬことだろう」
 莫循は眉を顰めた。高く吊り上げられた両手が痛む。両脚は床に着いているものの、片足にほとんど力の入らぬ莫循は、ついついふらつき、しばしば膝を折ってしまう。その度に手首に体の重みがかかり、縄が膚を破った。
 「うちの小姐は、それはもう賢く美しく気性のよいお方。靖王殿下の正妃として申し分ないというのに」
 ああ、と思い当る。
 靖王には、正妃がある。林殊を娶る、と言ったときに、静貴妃がそれに先んじて靖王に正妃をあてがったのだ。
 静貴妃は靖王と林殊が結ばれることを誰よりも喜んだが、その一方で靖王の胤を残すことにも頭を巡らせた。それゆえ、正妃を据えたのである。
 「お前さえおらねば、うちの小姐は靖王殿下のご寵愛を一心に受ける身であったものを、お可哀想に、あれでは形ばかりの正妃に過ぎぬ」
 莫循は睫毛を伏せた。正妃にとっても、林殊にとっても、それは不幸なことに違いない。
 「そればかりか、わたしは滑族の残党であるという理由で、小姐から暇を出されたのだ。お前や静貴妃の差し金に違いあるまい?」
 なるほど、と思う。
 この女にとっては、林殊に対して二重三重の恨みがあるのだ。かつて滑族を討ったのは、林殊の父・林燮率いる赤焔軍だったとも聞く。
 自分自身、異民族の血を引く莫循には、満更わからぬ思いではなかったが。林殊に果たして罪があるだろうか。
 女は手燭を壁の燭台にかけて、そばに立てかけてあった打ち杖を手に取った。
 「おまえなど。こうしてやる!」
 力任せに、女は杖を振るう。
 打ちすえられて、莫循は大きくよろけた。女の力はさほど強くはなかったが、莫循の足ではとても身体を支えることは出来ぬのだ。たちまち、手首に負担がかかる。
 ぴしり、ぴしり、と女は顔を真っ赤にして杖を打ち下ろした。
 不意に、太い声がかかる。
 「それくらいにしてはどうだ」
 女ははっとして手を止め、振り返った。
 「―――これは夏首尊」
 莫循はどうにか足元を踏みしめ、顔を上げた。
 (あれが、懸鏡司を束ねる夏江か)
 女は杖を背へ回して軽く膝を折り、夏江に向かって会釈した。そして、やや苦々し気に相手を見上げる。
 「首尊ともあろうかたが、随分甘いことを仰せになるではありませんか」
 夏江は冷ややかに女を見た。
 「誰が甘いと? 勘違いしてはならぬ。そなたに殺させたのでは、わしの楽しみがなくなると言うておるのだ」
 女がようやく、寄せていた眉を開いた。
 「おや、これはご無礼いたしました」
 「貸せ」
 夏江は女の手から杖をもぎとった。
 莫循の顔を間近に覗き込む。
 「蘇哲―――いや、林殊よ。いつぞやの舞台の折りには不覚をとったが、今や貴様の命はわが手の中よ。誰も助けには来ぬぞ?」
 そう言うなり、夏江は打ち杖を振り上げた。
 杖が風を切る。
 ぐっ、と莫循は呻いた。さっきの女とは、力の差が歴然としている。一撃で、骨まで砕けそうなほどの衝撃があった。
 この男は。
 それほどまでに、林殊を憎んでいるのか。
 「―――なぜだ? わたしの何が、それほどまでに気に入らぬ?」
 そう問い、莫循は、ぐふっ、と血を吐いた。
 「何が、だと?」
 夏江が笑う。
 「全てが、というよりほかあるまい?」
 血濡れた莫循の顎を掴んで、夏江は指に力を籠める。
 「貴様の父親のことも、わしは大嫌いだったのだ」
 夏江の目が憎悪に燃える。
 「林燮は勇猛果敢な将帥として常に日向を歩き、皆の賛辞を浴びた。それに引き換え、わしはどうだ? 懸鏡司として、溝鼠のようにこそこそと裏道を駆けずり回っていたのだぞ? 他人の暗部を嗅ぎまわり、後ろ暗いことにも手を染め、人から懼れられた。同じように鍛錬し、同じように陛下のために骨身を削りながら、なぜこうも違う?」
 夏江は莫循の顎を乱暴に放すと、その頬を平手で張った。
 「林燮の倅は怪童ともてはやされ、わしの息子はわしを置いて去った。なぜだ?」
 再び杖を振り上げ、二度、三度と莫循の身体を打つ。
 「大渝との闘いで赤焔軍が惨敗し、林燮父子が死んだと聞いたときは、胸のすく思いであったというのに」
 杖の柄を、莫循の喉元へぐりぐりと押し当てる。
 「貴様のことは、初めから気に食わなんだ。貴様さえ現れねば、靖王なぞ誉王殿下の敵ではなかった。滑族の血を引く誉王殿下が皇帝になれば、わしとて浮かび上がれようものを」
 誉王が滑族の血を引くというのは、莫循にとって初耳であったが、どうやらその言葉に嘘はないようだ。
 「その貴様が、こともあろうにあの林殊とは!」
 夏江は狂ったように哄笑した。
 今度こそ打ち殺そうかと言う勢いで、夏江が杖を振りかぶった、その時。
 
 あおぉぉぉぉぉ―――――ん

 狼の遠吠えが、こだました。
 (―――莘月)
 助けが来たと知って、莫循は顔を上げた。
 「何ごとだ?」
 女が階段の上の扉を開けた途端、
 「ぎゃあああっ!」
と悲鳴を上げた。
 何ものかに正面から襲い掛かられて、女は階段を転げ落ちてくる。
 女の身体から身軽く莘月が飛びのき、今度は夏江に向かって牙をむいた。
 「なんだ、この畜生めが!」
 夏江が杖を振り下ろそうとした途端、扉から更に一回り大きな獣が飛び込んできて、夏江を押し倒す。
 そこへ滑族とおぼしき男たちの一群が、逃げまどいながらなだれ込んできた。
 「……藺晨」
 白い衣の袖を翻して、剣を振るいながら階段を駆け下りてきたのは、ほかならぬ藺晨である。
 「九爺!」
 藺晨のあとから、石風がおっかなびっくり階段を下り、混乱を極める男たちの間をすり抜けて莫循のもとへ駆け寄ってきた。
 石風が莫循の縄をほどき、肩を貸そうとするところへ、男のひとりが得物を手に襲い掛かってくる。
 「石風!」
 莫循は石風を庇って覆いかぶさった。
 「九爺っ」
 石風が思わず目を閉じた時。
 「うわあああっ」
 男が絶叫した。
 「―――佛牙、莘月」
 振り返った莫循が、目を瞠る。
 二頭の狼が、男の肩と脚に噛みついていた。
 男は必死でふりほどこうとするが、もがけばもがくほど狼たちの顎は肉を咥え込んで離さない。
 痛みと恐怖で男が気を失うに至って、莫循はほっと息をついた。
 「もうよい。助かった」
 莫循の声に、二頭の狼はようやく男から離れた。
 そして。
 「待たせたな。こちらも片付いたぞ」
 笑みを含んだ声が、莫循の耳に届いたのだった。
 


   * * *



 「全く、さっきはどうなることかと冷や汗をかいた」
 馬車の中で、藺晨が不機嫌な声で言った。
 「さっき?」
 「石風を庇おうとしただろう?」
 ああ、と莫循はうなづいた。
 咄嗟に、石風に覆いかぶさったのだ。
 「おまえという男は、いつもああなのか? いくつ命があっても足りるまい」
 莫循は苦笑いした。 
 「砂漠の狼は、仲間を助けるためにならば全力を尽くすものだ。犠牲を顧みることも、見返りも求めることもない。狼の掟では、仲間への忠誠は絶対だ」
 そう言って、莫循は藺晨から少し顔を背け、咳をした。
 「だいぶやられたようだな、あのくそ親爺に」
 「大したことは、ない」
 「嘘をつけ」
 藺晨は莫循の肩へ手を回すと、そっと自分の方へその躰を引き寄せた。
 莫循は少し眉をひそめて自分の肩に回された藺晨の手を見ていたが、細く溜息をつくと素直に身体を預ける。
 しばらく黙って馬車の揺れに身を任せていた莫循は、ぽつりと言った。
 「―――石舫の内情を、知りたかったのであろう?」
 「―――そうだな」
 そういえば、はじめの目的はそれであったのだと藺晨は思い出した。商談は口実で、石舫の懐事情を探るつもりであったのだ。『大善人』などと呼ばれる鼻持ちならぬ男に、興味があったせいでもあったが。
 「……実は、わたし自身にもよくはわからぬのだ」
 莫循が微笑んだ。
 「ん?」
 「商いには、関心がなかったゆえ。」
 そう言い、莫循は一瞬身体を固くした。夏江に打たれたところがひどく痛むのだ。
 「……欲のないことだ」
 藺晨は笑って莫循の頭を抱き寄せる。莫循は少し息をつめて、痛みの波が引くのを待った。やがてほうっと息をついて、言葉を続ける。
 「……何もかも、祖父母や両親から譲り受けたものだ。別段、失って惜しいとも思わぬ。―――商いを狭めて、いずれは身一つで砂漠の民と暮らそうかと思っていた」
 夢見るような調子で、莫循は言った。
 「ほう。富豪の考えることは一味違うな」
 「貴方とて富裕な身ではないか」
 茶化した藺晨に、莫循は少し笑う。
 藺晨も笑った。
 確かに、食いはぐれることはあるまい。―――だが、『砂漠の大善人』ように、金品を貧しい者たちに湯水のごとく分け与えていったなら、その巨財もやがては尽き果てようというものだ。
 「お前には石舫が、わたしには琅琊閣がある」
 藺晨は言った。
 「そして、蒼狼印の者たちが、お前の手足だ」
 莫循はうなづかなかった。手足どころか、それは莫循にとって足枷でしかなかったのだ。
 「あなたの手足は、―――江左盟というわけか?」
 ならば、自分と藺晨の立場は驚くほど似てはいまいか、と莫循は思う。それでいながら、藺晨は、ひどく自由だ。いや、少なくともそう見えるように振る舞っている。まことは―――、藺晨とて負うたものの重みをつらく思うこともあろうに。
 「琅琊閣と江左盟の力は、中原全域に及ぶ。だが、それより西は?」
と藺晨が言った。
 「石舫と蒼狼印の勢力下と言いたいのか?」
 中原より西。異民族が跋扈し、さらなる西の国々と文化の入り混じる土地。
 西へ。西へ。と心は翔んだ。子供のころからずっとそうだ。思うに任せぬ足と、親から引き継いだ重すぎる荷のせいで、莫循は石舫と言う名の檻から逃れることもできなかった。遥か西の天地へ行けば、己は自由に走れるだろうか。そればかりを夢想してきたのだ。
 自分の中の異民族の血が、中原での暮らしを拒むのかもしれぬと、そう思うことさえあった。
 「まあいい。おまえががつがつと商いに精を出す姿も興覚めだ。―――おい、大丈夫か?」
 背を丸めて自分の身体を両腕で抱え込んだ莫循に、藺晨が少し慌てた声を出す。
 「―――すこし、胸が」
 「辛抱しろ。あとで念入りに手当てしてやる」
 そう言った藺晨の声音が優しくて、莫循はほっと息をついた。
 藺晨のように生きられたなら。
 蒼狼印を足枷ではなく己が手足とし、石舫の商いを愉しむ。そんな生き方もあるのだと、―――莫循は初めて思ったのだ。
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