琅琊榜

表兄弟 (『琅琊榜』#21.26.51.52補完)

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気の毒な景睿たんについてまとめときたかったのでw

 「友は裏切れない」
 景睿はあの時、そう言った。
 景睿にとって梅長蘇は、自分が都へ招いた大事な友であったのだ。
 あの時の景睿の真っ直ぐな友情は、梅長蘇の胸を深く抉った。
 なぜならその頃すでに、梅長蘇の頭のなかには今日という日が予見されていたからである。
 友と慕ってくれる景睿を、自分の手で深い悲しみの淵に落とすことを、梅長蘇は既に覚悟していた。それゆえに、景睿の言葉は渠を苛んだのだ。
 「友を苦難に陥れるなど、道に外れる」
 そう言い切って、景睿は誉王の圧力から梅長蘇を守ろうとした。
 その景睿を。
 (わたしは裏切り、苦難に陥れた)
 いざそれを果たしてしてまってから、梅長蘇は己の心が深い傷を負ったことを知った。

 「こういうことだったのだな。小殊」
 痛ましげに梅長蘇を見ながら、蒙摯が言った。
 「いつだったかお前はわたしにこう言った。悪を倒すには、時に罪なき者を傷つけ、その心に斬りつけねばならぬことがあると」
 そうだ。
 その苦痛と深き罪に靖王・景琰は耐えられぬ、それゆえ自分が背負うのだと。
 自分ならば耐えられると思った。とうに、己の心は痛みなど感じぬほど凍てついたと、そう思っていたのだ。
 それなのに、抗いがたいほどの激しい痛みの波が、梅長蘇を襲ってくる。
 「心にかかっていたのだ。あの時のお前の顔と声がつらそうで」
 「わたしの何がつらいものか」
 蒙摯の優しささえ、今は心を責め苛む。
 「つらい思いをしているのは、景睿だ」

 ほんの少し前まで、寧国侯府は簫景睿の誕生祝に沸き立っていた。
 手入れされた春の庭はのどかで、ふたつの家族は和やかに談笑し、景睿は卓夫人の仕立てた晴れ着に身を包んで、誰よりも幸福な公子に見えた。
 当たり前の日々が潰えるのに幾らも時のかからぬことは、梅長蘇自身がいやというほど知っていた。梅嶺で死闘の末に大渝を退け、皆傷つき疲れ果てながらも勝利の喜びに沸いたあの日、自分たちはあっという間に地獄に叩き込まれたのだ。
 昼間、春のうららかな風情を見せていた謝玉邸の庭は、今は夜の底に沈んで、そこここで焚かれる篝火に疲れた人々の顔が浮かび上がっている。
 池にかかった橋の欄干に寄りかかって、飛流に支えられながら、梅長蘇は立っているのがやっとであった。
 卓夫妻に泣いて詫びる景睿の姿が、梅長蘇の胸を刺す。
 景睿が詫びる必要など、なにひとつないのだ。最も哀れなのは、景睿そのひとなのだから。

 幼い日、自分に追いすがってきた従弟の、素直で愛らしい姿を思い出す。利発だが腕白できかん気だった豫津と違って、景睿は行儀もよく優しい子供であった。
 景琰を相手に乱暴な遊びに興じたかった自分は、慕ってくる幼い景睿を煩わしく思ったものである。しかし、どんなに邪慳に扱っても、景睿は不思議に自分を嫌うことはなかった。
 それは、『梅長蘇』となってからも、なぜか同じだった。
 偶然を装って出会った景睿が、梅長蘇にどの程度心を開いてくれるか、それは賭けでもあったのだ。人の心をつかむ手管は心得ていたが、すっかり立派な貴公子に成長した景睿は、その生い立ちのために朝廷にも江湖にも明るく、賢く思慮深い青年である。果たして、自分の思い通りに動いてくれるかどうか、梅長蘇とて心もとなかったのだ。
 ところが、あきれるほど簡単に景睿は梅長蘇を信奉した。それは、梅長蘇の名が少しばかり江湖に知れていたためでもなく、その見識を敬ってくれたためだけでもない、ただ、一个の人として慕ってくれているのだと気づいたとき、梅長蘇は少しばかり戸惑ったのだった。純粋な親愛の情を向けてくれる景睿の姿は、幼き日のそれと重なって見えた。
 その景睿を、自分は利用したのだ。

 泣き崩れる景睿を眺めて、梅長蘇の心は剣で斬り苛まれるかのようだった。
 これが自分のしたことの結果だ。
 『罪なき者を傷つけ、その心に斬りつける』。
 罪なきどころではなかった。あれほど深い友情を示してくれたというのに。
 謝玉の罪を暴けば、どうしたところで景睿を傷つけぬわけにはいかぬ。それはどのみち、避けて通れぬことであった。
 しかし、これほど最悪な形で暴露する必要があっただろうか?
 むろん、謝家、卓家が集い、梅長蘇自身や宮羽が同席しても不自然でない機会など、そうあるわけではない。この日しかなかったのは確かだ。それでも、もっとほかにやりようはなかったのか、と自問せずにいられない。
 「小殊」
 わずかに揺らいだ身体を、蒙摯に支えられた。
 梅長蘇は静かに首を振った。
 「大丈夫だ。先に出ていてくれ。誉王に不審に思われてはならない」
 今、誰かに労わられることは、むしろ苦痛だった。
 景睿をこそ、この手で労わってやりたかったのだ。



  ***



 悲しかった。
 蘇兄のせいではない、と頭では思う。
 たとえ梅長蘇が暴こうが暴くまいが、事実に変わりはなかったのだから。
 それでも、悲しかった。
 父や母に欺かれていたことも、父と呼んできた人の犯した罪も、その人がためらいなく自分を殺そうとしたことも。
 そして友と慕った梅長蘇が、それを暴く日を密かに待ち続けていたに違いないことも。

 豫津に会いたいと思った。
 ひとつ年下の、利口だが少し臆病で鳥目のこの友を、いつも兄さんぶって守ってきたつもりだった。だが。
 支えられていたのは自分だと気づく。ふたつの家のはざまで、いずれにも甘えきれず、背伸びしてきた自分を、豫津だけがありのままに受け入れ、ゆったりと寛がせてくれた。
 その豫津にも、もう幾日会っていないだろう。いかに気のよい豫津とて、あんな騒ぎのあとではさすがにもう自分に関わる危険を冒せまい。

 (―――林殊哥哥)
 不意に、その人が思い起こされ、景睿は自分に戸惑う。

 幸せだった日々。
 まだ自分の置かれた複雑な立場など、よく知りもしなかった幼い頃。謝・卓、両家の父母ともに、景睿には甘く、優しかった。
 それでもなぜだろう、いつもどこか不安で、いい子にしていなければ全てが一瞬で足元から崩れ去ってしまうような心もとなさを感じていたような気がする。
 だからこそ、自由闊達な従兄がまぶしかった。
 大好きで、いつも追いかけては邪魔者扱いされた。林殊は年下の景睿や豫津と遊ぶにも容赦がなく、豫津などはすぐに癇癪を起しては逃げ出した。それでも景睿は、どうしても林殊についていきたかったのだ。
 林殊はそんな景睿を面倒がり、いつもからかうだけからかって放り出した。追えば必ず林殊は逃げた。
 けれども。
 景睿が転べば、必ず足を止め、戻ってきてくれたものだ。転んで膝を打った景睿よりも、まるで自分のほうが傷ついたかのような顔をして。
 差しのべてくれる手はいつも温かくて、べそをかいていた景睿は、その手をつかむだけでほっと安心できた。
 姉妹であった母同士の仲もよく、従兄弟たちの中でも一番慕わしい存在だったのだ。

 ―――こんな時こそ、林殊哥哥にいてほしかった。
 たとえ心が張り裂けても、林殊哥哥ならきっと、たちどころに癒してくれる気がした。

 それなのに。
 林殊哥哥は、いない。

 十二年前、林殊が二度ともとらぬと知った時、景睿は泣いた。もう、泣いて母を困らせるような歳でもなかったのに、一晩中、泣き明かしたのだ。
 林殊の名を口にしてはならぬと諭され、景睿は悲しみを飲み込んだ。辛抱するうち、いつのまにか寂しさも忘れてしまっていたのだ。
 けれど今は。
 ただ、林殊が恋しかった。





 もう金陵の城門を振り返ることもなく、景睿は馬を駆っていた。
 南楚へ……。それだけだった。心はすでに空っぽになっていたのだ。
 これまでとて、江湖を気ままに旅することも多かった景睿だが、帰るべき故郷は金陵であった。しかし、今ではそれも自身の中で不確かなものになってしまっている。母の待つところを故郷と呼ぶならば、確かに金陵はそれに違いなかったが。
 一連の騒動の中、謝綺という妹を失い、念念という妹を景睿は得ていた。その念念と馬首を並べてしばらく走ると、背中を耳慣れた声が追ってきた。
 景睿は馬を止めて振り返った。
 豫津である。
 会わずに行くつもりだった。
 どういう顔をして会えばよいか、わからなかったのだ。
 「哥哥、急ぎましょう」
 妹は言い、すぐにも馬首を巡らせて駆けだそうとする。
 けれども、やはり。
 別れを言いたかった。次はいつ帰るともさだめぬ身だ。

 景睿と豫津、馬を降りるのもほぼ同時だった。
 少し会わぬだけで、ひどく懐かしい。
 お調子者の豫津が、生真面目な顔つきで、どこへ行く気かと問う。そういう表情をすると、どこか父親の言侯に似て見えるから不思議だ。自分も、まだ見ぬ南楚の父に、少しは面差しが似ているのだろうか。
 南楚だと答えると、おまえは大梁の人間だと、噛みつくような調子で豫津は景睿の手をとった。連れ戻そうというのだ。
 病の床にある南楚の父を見舞うだけだと言うと、豫津は忽ちきまり悪そうな顔をした。
 「わたしはてっきり……」
 少しはにかんだような表情で豫津が言った。
 「なんだ?」
 「辛いから、梁を捨てるのかと思った」
 景睿は黙って首を横に振ったが、そういう気持ちがなかったわけではない。自分はこの金陵から逃げるのだ。
 「本当に戻ってくるな?」
 「母がいる。当然だろ?」
 そう言うと、豫津はようやくほっとしたような顔つきになった。ずっと話したかったのだと言う。
 「景睿。決して気に病んではいけない。親の因縁はお前と無関係だ」
 そんなことを言ってはくれるが、そうは割り切れぬ景睿である。
 血のつながった肉親との縁は絶てぬし、これまで家族と呼んだ人々への情も容易くは捨てられぬ。
 豫津の気持ちは嬉しかったが、もう以前の自分には戻れない。謝玉を父と敬い、卓家の両親や兄を誇らしく思っていた、幸せなあの頃には。

 「ひと夜の間に―――、周りの人も環境も一変した。わたしだって変わる」
 全てが変わってしまったのだ。もう幾日もこらえてきた涙が込み上げる。
 だが、豫津は逆にこう問うてきた。
 「変わって悪いか? みんな変わる」
 ふと、その言葉が耳に留まる。
 自分だけではない。皆が?
 目から鱗の落ちる思いだった。
 そのとおりだ、時がうつろえば、人はみな少しずつ変わってゆく。自分の場合は、二十数年蓋をされていたものが、一夜にして暴かれただけだ。

 「もしも―――、以前に戻れないなら、それでもいい。だが―――」
と豫津が言う。
 「我らの友情は変わらない。お前がよちよち歩きの頃から私が友であることを忘れるな。わかったか?」
 景睿は思わず苦笑した。
 忘れはすまい。
 豫津は誰よりも大切な友だ。
 こんなにも。自分が思っていたよりもずっと、大切な友だったのだ。
 けれど。
 「だが、その頃、お前は這うだけだったろ。友だと認識していたのか?」
 可笑しくて、思わずそう突っ込まずにはいられない。豫津も笑った。互いに小突き合う。
 その豫津の腕が、景睿を抱きしめた。

 生涯の友だ。
 たとえ梁と南楚に離れても、この友の温もりは忘れまい。

 「わたしが恋しい時は文をくれ」
 豫津はそう言った。まるで、「恋しいから文をくれ」と言っているようにも聞こえたが、景睿は「ああ」とうなづいた。

 心もとなげに待っていた妹の念々にも、豫津は親しく声をかける。
 「いい兄を持って幸せだな。頼んだぞ」
 「……好的」
 念念の憂わし気だった貌も、晴れやかになった。豫津の思いやりが、ありがたい。

 馬の手綱を引き寄せようとして、景睿はふと、丘の上に佇むすらりとした姿に眼を留める。
 梅長蘇だと、すぐにわかった。
 南楚へ旅立つ自分を、黙って見送ってくれるつもりだったのか。
 今朝は風があって、丘の上は渠の身体には毒かもかもしれない。
 景睿はゆっくりと斜面を登っていった。
 梅長蘇は、真摯な表情で詫びた。
 可笑しくなる。
 「責めやしませんよ。母の過去もわたしの出生も、先生には関係ないこと」
 全ては真実で、梅長蘇はそれを暴いただけ。幾度となく自分に言い聞かせてきたことを、梅長蘇本人にも語って見せる。
 「……だが、あの夜のことはわたしが計画し、最も残酷な形で真相を暴いた。おまえの気持ちや友情を顧みずに」
 いたたまれぬといった風情で、梅長蘇が言った。
 「是」
 打ち萎れた梅長蘇の姿に、微かに心が波立った。
 「先生は自分にとって大切なものをとり、私を捨てただけ。捨てられたからといって恨んでは―――、この世は許せぬことばかりになる」
 景睿の言葉を、梅長蘇は気の毒なほど身を固くして聞いていたが、
 「……景睿。おまえは誠意をもって接してくれた。だが、わたしは……」
と声をつまらせた。
 「……あんなしうちを」
 切なげに、梅長蘇はそう言った。
 「誠意を示したのは望んでのことです。誠意が返ってくれば喜ばしいですが、そうでなくても後悔はありません」
 そうきっぱりと言い返すと、梅長蘇はますます苦し気な表情をした。
 どうしてだろう。
 つらい想いをしたのは自分だというのに。蘇兄のほうが遥かにつらそうな顔をしている。

 ふとまた、遠い日の、従兄の顔を思い出した。
 さんざん景睿をからかった挙句に置いてけぼりにして、追い慕う景睿が転んで泣いたとき、戻ってきた林殊はひどく申し訳なさそうな、傷ついた顔をしていた。そんな顔をするくらいなら、はじめから優しくしてくれればよいものを、と幼心に思ったこともある。けれど、林殊に助け起こされ、膝の汚れを払われて、ほんの少しきゅっと抱きしめられるだけで、景睿はなにもかも許せたものだった。

 「……お見送りに感謝します。これにて失礼」
 景睿は踵を返した。
 その背を、梅長蘇の声が追いかけてくる。
 「不公平な世ではあるが、純真な心を持ち続けてくれ」
 あなたがそれを言うのか、と景睿は言い返したい言葉をぐっと飲み込んだ。
 梅長蘇の声は、あまりにも悲痛な響きを孕んで、景睿の胸に深く刺さったのである。






 まさか、東宮で梅長蘇に再会するとは思わなかった。
 南楚へ旅立ったころには、渠は誉王派であったはずだと、景睿は驚く。今ではその誉王も自滅して果てたとはいえ、変わり身も早く新太子の懐に潜り込んだというのだろうか?
 いや―――、と景睿は思った。
 新太子に寄り添う梅長蘇の姿は、これこそが渠の本来の居場所なのだと、景睿の目にはそう見えた。
 「先生とわたしは一心同体である」
 太子がそう言ったとき、少し目を伏せた梅長蘇はどこか幸福そうだった。以前より幾らか痩せたようだが、その眼差しには以前にもまして温かい落ち着きが宿ったように感じられる。

 太子と梅長蘇は、母に謝玉の旧罪の暴露を迫った。
 謝家への恩赦を条件に応じる心算で、返事をしぶって見せた母に対する梅長蘇の憤りは、景睿を少なからず驚かせた。これほどまでに激した渠を見たのは、初めてだったのだ。
 それは怒りというよりも悲しみにも似て、まるで命のありったけを注ぎ込むような激しさだった。
 「『何の得があるか』!? 悲惨な真相を知りながら見返りを求めるとは、無念の死を遂げた魂に対して情は湧かぬのですか?」
 そして、渠は莅陽長公主に公の場で謝玉の罪を訴えてほしいという要求を取り下げた。
 ぐったりと座り込んでうなだれてしまった梅長蘇に、景睿の胸は激しく痛んだ。

 思い直し、覚悟を決めた母に、太子と梅長蘇は厚情を示した。梅長蘇ははじめから母の苦衷を察してくれていたのだ。謝家への恩情を母に対する餌にしたくなかっただけなのだと知る。赤焔事案に対する彼の思いの強さに、景睿の胸は熱くなった。
 「……景睿」と、梅長蘇に呼ばれて、はっとする。蘇兄の柔らかな微笑がそこにあった。
 「南楚で見識をは広めたはずだ。元気だったか?」
 優しい声音だ。まるで、弟を慈しむ兄のような。
 景睿は眼を細めた。
 全く恨まなかったといえば嘘になる。
 梅長蘇さえ都にやってこなければ、自分は今も、何の悲しみも知らぬまま、幸せな貴公子でいられたことだろう。しかし、と思う。
 偽りの幸福の中で、自分は幼いころからどこかしら危うさを感じていたのだ。全てが明るみに出て、失ったものは確かに多かったが、自分はようやく長い間の不安から解き放たれたのではなかったか。
 まことの父を知ることもできた。悪いことばかりではなかったのだ。
 久し振りに聞く梅長蘇の穏やかな声は、懐かしく慕わしいものに思える。
 「是」
 そう答えると、満足そうに梅長蘇は微笑んだ。ずっと自分のことを案じてくれていたのだと、景睿は悟った。





 蘇宅を訪ねるのは、いつ以来だろう。
 黎綱の案内で、勝手知った書房へと通される。
 梅長蘇の静かな笑顔に迎えられた。
 「よく来たな、景睿」
 「蘇兄」

 あれから考えた。
 梅長蘇のあの、怒りと悲しみのわけを。

 そして。

 ありうべからざる結論に達したのだ。

 あまりにも莫迦げたその考えに、景睿は戸惑った。そうして、景睿は豫津を訪れた。
 豫津は笑って、
 「なんだ。今頃気づいたのか」
と言った。
 「もっとも、わたしもいまだに半信半疑だが」
と。

 「南楚の土産話でも聞かせてくれるのか?」
 火鉢の上の鉄瓶に手を伸ばしながら、梅長蘇がそう尋ねる。
 景睿はすこしためらい、―――そして、呼んだ。
 「……林殊哥哥」

 その途端、茶を淹れる梅長蘇の白い手が止まった。
 林殊とは似ても似つかぬ、華奢な美しい手だ。
 それでも。

 「林殊哥哥」
 もう一度、呼ぶ。
 「景睿……」
 梅長蘇が眼を上げ、自分を見る。

 やっと、わかった。
 なぜこんなにも、梅長蘇を慕わしいと思ったのか。
 初めて会った時から、この江湖の男を自分は小指の先ほども疑わなかった。
 素性の知れぬ、そしてその肚の内さえ読めぬこの男を、はじめから兄と慕い、友と親しんだ。
 そうして友情は手ひどく裏切られたと思ったが……。
 「南楚ではずっと、誰かに見守られている気がしていました。あなたが配下を遣わしてくれたのでしょう?」

 梅長蘇は視線を泳がせ、淹れ終えた茶を静かに景睿の前へ差し出した。
 それには眼もくれず、景睿は梅長蘇の前へと膝を進める。
 「哥哥」
 あの新太子が『一心同体』と呼ぶ相手は、林殊をおいてほかないではないか。
 「あなたは林殊哥哥だ」
 梅長蘇の薄い膝を、景睿は両手でつかんだ。
 「景睿……」
 天を仰ぎ見るような仕草で、梅長蘇は嘆息した。
 「……今日だけだ」
 弱々しく、梅長蘇は言った。
 「え?」
 「明日からはまた、蘇哲……梅長蘇だと思ってくれ」

 どうして、とは景睿は聞かなかった。
 林殊がそう言うのならば。
 それは林殊にとって必要なことなのだ。

 「わかったよ。林殊哥哥」

 だから、今日だけ。
 昔のように。

 景睿は林殊を抱きしめた。




  ***




 「長蘇」
 呼ばれて、梅長蘇は我に返った。
 「……藺晨」
 茶を差し出される。

 「……わたしはあの子に、ひどいことをしたのに」
 思えば、子供の頃からいつもそうだ。慕ってくる景睿に、すこしも年上らしい優しい態度を示さなかった。
 それでも景睿は自分を慕うことをやめなかったのだ。

 「……知られたくはなかった」
 うなだれる梅長蘇に、藺晨は鼻で小さく笑った。
 「知らぬふりを、してくれるのだろう?」
 受け取った茶杯に眼を落として、梅長蘇は浅くうなづく。
 「賢い子ゆえ、すぐに聞き分けた。……小さいころから、そうだった」

 賢くて、優しい。
 それだけに、傷つきやすい心を持ってもいたのに。

 「もう立派な大人の男だ。おまえが気に病むこともない」
 藺晨の言葉に、梅長蘇はもう一度うなづいた。

 そのとおりかもしれぬ。
 景睿は傷ついて、そして、強くもなったのだろう。
 もう、見守ってやる必要もない。
 転べばひとりで起き上がれるし、それでも耐えがたいときには豫津がいる。

 景睿も豫津も、もう子供ではないのだ。

 「わたしがいなくなっても」
と梅長蘇は低い声で言った。

 「……飛流や庭生も、あっという間に大人になるのだろうな」
 小さく笑った。

 いつまでも、見守っていてやりたいと思う心にはお構いなしに、子供たちは成長する。

 「ちゃんと見届けてやればいい」
 藺晨が言う。
 そんなことを、果たせるはずもないと知っているくせに。

 梅長蘇はくすっと笑った。
 「そうだな」

 笑みを浮かべたまま息をついて、梅長蘇は手にした茶杯をいつまでも弄んでいた―――。



















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