琅琊榜

飛蝶1 『傀儡(くぐつ)』  (『琅琊榜』#54補完)

 →飛蝶2 『歹人』     (『琅琊榜』#54補完)
最終話を見終えた夜中に、不意に書き始めた一夜漬けの話w
自分のロスを埋めるためだけに書いたので、かなりこじつけ。
たぶん、死にかけの人じゃ用をなさないだろうな。
いくら強くても死にかけじゃ内力も弱ってるだろうし。
イキのいいピンピンしたのを10人殺さなきゃいけない。
でも、そんなの宗主が受け入れるワケないもんねえ。


 戦況を報告した兵が軍幕から退出した途端、梅長蘇の身体が僅かに揺らいだ。
 甲冑のさねが、がちゃりと音を立てる。
 「……藺晨」
 呼ばれるまでもない。
 冰続丹の効き目が薄れてきたのだろう。
 そばの桌子に手をついて肩を喘がせる梅長蘇へ、藺晨は黙って近づいた。
 「薬を頼む……」
 見上げる梅長蘇の切なげな顔に、ほだされてしまいそうになるが。
 「不行」
 にべもなく答えて、藺晨は梅長蘇の甲冑を脱がせにかかる。
 「よせ。このままでいい」
 「莫迦を言うな。こんなものを着込んでいるから尚更消耗する。このままでは横にもなれまい」
 無理矢理鎧を引き剥がそうとしたが、梅長蘇は抗い、睨みつけてくる。
 「誰が横になると言った」
 藺晨は溜息をついた。 
 「さっきの話を聞いただろう。蒙大統領はお前の立てた策に則って、着々と戦果をあげている。暫くは敵も応戦一方で、新たな動きはなかろう。当分、お前の出る幕はない」
 梅長蘇は少し目を背けた。
 「それでも、留守を預かる身だ。対応せねばならぬこともあるし、私の姿が見えぬとあっては士気にも関わる」
 は?と藺晨は殊更呆れたような声を上げた。
 「情けないことを言うな。お前一人の姿が見えぬくらいで落ちる士気なら、初めから無いも同じだ。休めるときに大人しく休んでおかなくてどうする。薬が切れる度に飲んでいたのでは、三ケ月どころかひと月ももたん」
 返す言葉がないのか、或いは言葉を返す気力もなくしたのか、梅長蘇はようやく大人しくなった。
 ―――せめてこの戦の勝利を見届けるまでは、生かしておいてやりたいのだ。
 悔いを遺す逝き方は、させたくない。
 そのために自分がそばにいるのだから、とそう考えて、藺晨はふと眉を寄せた。
 林殊のためか?
 林殊をよりよく死なせてやるために?
 (そうではない)
 やはり自分は、梅長蘇という男の生を惜しむのだ。
 この男が望む、林殊としての死と、自分が願う梅長蘇としての生と。
 いずれも叶える方法はないものか。
 藺晨はいまいちど溜息をついた。



   ***


 「負傷者の様子はどうだ」
 己の身ひとつも持て余しつつ、それでも梅長蘇は負傷兵たちを見舞った。
 「藺太夫には助かっています」
 傷病兵の看護に当たっていた兵士のひとりが、笑顔で振り返る。兵士自身も額に血をにじませていた。
 梅長蘇は微笑を返す。
 「口は悪いが腕は確かだ。体も丈夫に出来ているから存分にこき使っていい」
 そう言った途端。 
 「おい。聞こえてるぞ。口が悪いは余計だ」
 巻きかけの包帯を傍らにいた兵士に任せて、藺晨が歩み寄ってくる。
 「本当のことだろう」
 微笑って言い返すと、藺晨は大いに眉をしかめた。 
 「大体わたしは軍医に志願した覚えはないのだぞ。お前付きの親兵ゆえお前の世話はするが、ほかの怪我人など知ったことではない」
 鼻息も荒く指をつきつけてくるが、藺晨の口の悪さには慣れている。
 「わたし付きの親兵ならば、もっとわたしを敬え」
 事もなげにそう言ってのけると、藺晨も言い返してくる。
 「命の恩人に向かって生意気な口を叩くな」
 「あの……」
 その時、さっきの兵士が口を挟んできた。
 「なんだ!?」
 藺晨が不愛想に振り返る。相手が女なら、まるで対応が違っていように、と梅長蘇は小さく笑った。
 「あちらにお茶を用意しましたので、よろしければ」
 そう聞いて藺晨はどうやら矛を収めた。くい、と顎で誘ってくる。
 主帥付の参謀相手に随分横柄な態度だと苦笑しながら、こんな場所にさえ江湖の自由な風を持ち込む藺晨が好ましくもあった。
 茶を注ぎながら、兵士が笑いを噛み殺している。
 「なんだ?」
 いぶかしんで尋ねると、兵士は慌てて咳ばらいをした。
 「あ、いえ」
 ちょっと口ごもってから、兵士は少し口元をほころばせた。
 「……蘇先生は、もっとその……」
 再び途切れた言葉に、藺晨がすかさず割って入る。
 「もっと冷酷無比で、小狡くて、口先ばかりの、いけすかない嫌な男だと思っていたのだろう?」
 「藺晨」
 面白がって言い連ねた藺晨をたしなめたが。
 「そ、そこまでは」
 兵士の笑いがひきつっている。
 「名高い謀士と伺ってはいましたが、戦場の事情には疎くておいでかと、皆少し心配していたのです」
 さもありなん、と梅長蘇は思う。
 戦場の過酷さも知らぬ書生風情など足手まといな上に、的はずれな献策で軍を引っ掻き回されては迷惑千万と、兵士たちは思っていたに違いない。
 林殊の名で戦列に加わることができぬ以上、あくまでも朝廷の客卿・蘇哲に過ぎぬ身だ。
 蘇哲が自陣に加わると聞いて、内心抵抗を感じたものも少なくはあるまい。これまで蒙摯のような実直と豪胆が取り柄の男の元で 戦ってきた兵士なら尚更である。
 「貧乏くじを引かせて悪かったな」
 梅長蘇は思わず笑った。
 「いえ!とんでもない」
 兵士が声を高くし、そのために近くにいた者たちも、何事かとこちらを振り返った。
 「正直、みな驚いているのです。蘇先生はまるでその……」
 ふん、と藺晨が鼻で笑った。
 「まるで武人のようだろう?」
 「藺晨……」
 いちいち茶化す癖は戦場でも直らない。
 「いえ、藺太夫のおっしゃるとおりです。蘇先生の策は、戦慣れした名将のそれより的確だと、皆が口を揃えて言っています。我ら兵士の気持ちもよく汲んでいただける」
 周囲の者たちも集まってきて、頷きあった。
 「それに、ご気性も」
と一人が言えば、別の兵士が言葉を引き継いだ。
 「もっと細かくて、口うるさくて、冷たくて、堅苦しいかたかと」
 梅長蘇は、思わず苦笑する。 
 それではさっきの藺晨の評と変わらぬ。
 「ところが、存外、快活で大胆で大雑把で行儀も悪い。……だろう?」
と藺晨が言葉を添える。
 「大雑把とは何だ。行儀が悪い!?」
 確かに元は武人だが、と梅長蘇は鼻白む。
 金陵にいる間はなるだけ書生らしく振る舞っていたが、戦場に来るとつい地金が出る。とはいえ、これでも皇族を母に持つ身である。行儀が悪いなどと言われては心外だ。
 「実はこれでも随分ましになったのだ。十年以上前などもっとひどかった。たとえば……」
 来来来、と藺晨は兵士たちを自分の方へ招き寄せた。
 「おい、藺晨……。おまえたちも」
 既に誰も梅長蘇の言葉を聞いていない。 
 頭を寄せあった兵士たちに、藺晨が素早く何か耳打ちする。 
 途端に皆がどっと笑った。
 「藺晨、おまえ、何を言った」
 藺晨の束ねた髪をぐいっと引っ張る。
 「単なる思い出話だ。気にするな」
 ひらひらと手を振られた。
 皆が自分のほうを見ぬようにしてくすくすと笑っている。
 「どうせまた、あることないこと」
 「私はあることしか言わぬ」
 思い当たることが多すぎて、梅長蘇は頭を抱えた。かつての不行状のつけがこんなところで回ってくるとは。若気の至りほど恐ろしいものはない。
 「蘇先生が『麒麟の才子』だということは、いまや知らぬ者とてありません。その蘇先生が、このようなお方で、実に感激しております」
 そう言った兵士が、またぷっと思い出し笑いした。


 「どうだ? 梅長蘇もこれでなかなか人気者ではないか」
 自分たちの軍幕へ戻ってからも藺晨は楽しげで、梅長蘇は顔をしかめた。
 「参謀は嫌われるくらいで丁度いい。これでは示しがつかん」
 そう言うと、藺晨はさも意外だというように、大袈裟に両手を広げてみせた。
 「示しなどつかずともいい。『梅長蘇』はお前一人のものではないぞ? 私も共に作り上げた最高傑作だ。私はその傑作を皆から誉められたい」
 なんだ、その理屈は、と思う。
 「誉められるために『梅長蘇』をやっているのではないぞ」
 そう言った途端、藺晨の表情がふと真顔になる。
 それからその顔に、やんわりと微笑が浮かんだ。
 「―――では、なんのためだ?」
 渠らしくもない、穏やかな口調でそう問われた。
 「私が十三年もの間、友と呼んだ梅長蘇という男は、なんのために今生きている?」
 ……なんのため?
 決まっている、と梅長蘇は思う。
 復讐の手段としての、傀儡にすぎぬではないか、梅長蘇とは。
 藺晨が友だという梅長蘇は、まことは林殊なのだから。
 「……まだそんなことを言っているのか」
 吐き捨てるように、梅長蘇は言った。
 しかし。
 「おまえは確かに林殊かもしれん。だが、……わたしと飛流にとってはずっと梅長蘇だ。それに」
と藺晨はいったん言葉を切ってから、続けた。
 「いまや林殊ではなく、梅長蘇自身を慕う者も少なくはなかろう?」
どきり、とする。 
 「……だったらどうだというのだ」
 梅長蘇は目を伏せた。
 暫しの沈黙のあと、藺晨は重々しく言った。
 「―――活下去」
 「!」
 梅長蘇の胸を、衝撃が走った。
 あの日の梅嶺が蘇る。
 「林主帥は、かつてお前にそう言ったのだろう?林家と失われた七万の兵の命を負わせて。なればこそ、おまえは梅長蘇として生まれ変わった」
 ごくり、と梅長蘇は唾を呑んだ。
 そうだ。
 林殊はあの日、梅嶺で父や赤焔軍の兵士たちとともに死ぬはずだった。
 生き延びたのは、かれらの無念を晴らすため。
 その為に、梅長蘇という傀儡を作り上げたのだ。
 林殊の熱い魂を、その奥深くに秘めた、冷たい傀儡を。
 「お前はわたしに言っただろう? 梅長蘇の役目は終わったが、林殊はまだだと」
 藺晨の顔が間近に詰め寄る。
 「私に言わせれば逆だ。終わったのは、梅長蘇という傀儡を操り続けた林殊の役目だ」
 藺晨の言葉に、梅長蘇は目を瞠る。
 息がかかるほど近くにある藺晨の眸は、いつになく真剣で、圧倒される。
 「林殊はお父上の言葉通り、赤焔軍七万の無念を晴らし、新しい世の礎を築いた。充分務めは果たしたはずだ。そして、再びこの北の地へ戻ってきた。ここから始まった林殊の十三年は、既に終わったとは思わぬか?」
 何か言い返そうとして、梅長蘇は小さく唇をひらいた。
 だが、言葉を探し当てることが出来ずに、わずかにかぶりを振る。
 「今のお前は、今度こそ梅長蘇としてここにある。これまで林殊の傀儡に過ぎなかった梅長蘇が、ようやく自分の生を生きるときが来てもよいのではないか?」
 頭が、混乱した。 
 藺晨の目から、逃れられない。瞬きさえできなかった。
 「活下去……」
と再び藺晨が言った。  
 「今度は、戦場に散った兵と共にではなく、生きてお前を想う者たちと共に、だ」
 呆然として、梅長蘇は長いこと藺晨の顔を見ていた。
 それからようやく視線を泳がせ、長いため息をつく。
 鼓動が、速い。
 「……考えたことも、なかった」
 頭が、痺れたようになっている。
 林殊としてのさだめを全うすることしか、これまで思ったことがなかった。ただ、その為に、生きてきた。
 梅長蘇を演じれば演じるほどに、林殊である己から逃れられなかった。
 ならば、『梅長蘇』として生きた日々は?
 その年月の間に出逢った人々は?
 全てが幻だったといえるだろうか。
 藺晨は既にいつもの人を食ったような表情に戻っている。
 そうして、小さく笑った。
 「なら、これから考えろ」


  ***


 「そっとやれ。まだ死なせるんじゃないぞ」
 傷兵を運ぶ蒙摯とその腹心に指示を飛ばしていた藺晨は、背後の気配に振り返った。
 「何の騒ぎだ」
 近づいてきた梅長蘇の顔は、月明かりの下で蒼白い。
 藺晨は、思わず眉を潜めた。
 「寝ていろと言ったろう」
 既に遠征して二月余り。
 梅長蘇の身体は、もはや限界だ。
 近頃は冰続丹の効き目も、長くはもたない。
 「お前が騒がしいゆえ、目が覚めた」
 窶れた顔に浮かぶ微笑も、痛々しい。
 「まあいい。用意ができれば呼びにいくつもりだったのだ。手間が省けた」
 「……なんのことだ」
 それには答えず、藺晨は怪我人が運び込まれた軍幕へ、自分もそそくさと入っていく。
 「おい?」
 覚束ない足取りで、梅長蘇がついてきた。
 入れ替わりに、蒙摯がちらっと梅長蘇の顔を見てから軍幕を出て行った。
 軍幕のなかには、血の臭いが立ち込めている。
 幾人もの傷兵が、横たえられていた。
 「傷はひどいのか」
 気遣わしげに兵たちのそばへ屈みこもうとした梅長蘇の腕を、藺晨は掴んだ。
 「この者たちは助からん。手の施しようがない」
 「!」
 梅長蘇が、振り返る。
 しかたのないことだ。
 ここは、戦場なのだ。
 それは武人であった梅長蘇が、一番よく知っているだろう。
 たとえ勝っても負けても、敵も味方も夥しい死傷者を出す。それが戦であり、それゆえにこそ、戦のない安寧な世を作らねばならぬと、梅長蘇は身を削ってきたのだ。
 藺晨は、負傷兵たちを見下ろした。
 「だが、この者たちにはまだやれることが残っている」
 なんだ?と問いたげに振り向いた梅長蘇の顔が、不意になにもかも悟ったように強ばった。
 梅長蘇の目が、素早く兵士たちを数えるのがわかった。
 ―――十名の傷兵たち。
 「まさか」
 梅長蘇があとずさる。
 「そんなことには応じられぬ」
 ゆるゆると左右に首をふる。
 羽織っていた外套が、痩せた肩から滑り落ちた。
 藺晨は近づき、外套を拾い上げる。
 「お前のために死ぬのではない」
 そう言っても、梅長蘇は顔を背けようとした。
 「十名とも、承諾している。負傷兵の中でも選りすぐった手練れ揃いで、死を前にしても、いまだ気は衰えていない。……今しか、間に合わぬのだ。おまえの中で、生かしてやろうとは思わないのか」
 一歩、詰め寄る。
 「不行」
 不行不行と繰り返しながら、梅長蘇は幾度もかぶりを振った。
 「おまえの道義に反することは決してない」
 それでもなお、受け入れがたいといった表情で、梅長蘇はその場にがっくりと膝をついた。
 「大丈夫だ。わたしに任せろ」
 藺晨は友のそばに屈み込むと、硬く強ばった身体を外套でくるんでその肩を抱き寄せた。


  ***


 廊州の春は、もうそこまで来ている。
 まだ歌い慣れぬ鴬が、つっかえながらもどかしげにさえずっている。
 さっきから黎綱と甄平ふたり並んで側に座られ、藺晨は辟易している。
 「言いたいことがあるなら、さっさと言え。いつまでもむさ苦しい男ふたりに座られていたのでは鬱陶しくてかなわん」
 ふたりが目配せしあう。
 「その……」
 黎綱が、口火を切った。
 「なんだ?」
 「……宗主はまことにお元気に?」
 小太りな体を縮めて、上目使いに尋ねる。
 「あん?」
 「いや、その……」
 ふたりとも、気まずげにうつむいた。
 「いい度胸だな。わたしの腕を疑うのか?」
 「そうではありませんが」
 藺晨は、眉をひそめて顔を背けた。
 「帰ってきてから、一度でも発作を起こしたか?」
 「それは……」
 黎綱が口ごもる。
 ふたりへ視線を戻して、藺晨は眉をひらいた。
 「安心しろ。昔の通りに、とはいかぬが、とりあえず天寿は全うできようさ」
 そう太鼓判を押すと、黎綱と甄平が、よいやく嬉しそうに顔を見交わす。
 「ですが、ずっとろくに口もきかず、食も細くておいでなので……」
 「……あれは、気鬱の病だ」
 面白くもなさそうに鼻を鳴らし、藺晨は窓の外へ目をやった。ちょうどまた、鶯が下手くそな歌を歌ったせいである。
 「ほうっておけ。その内やつが自分で折り合いをつける」
 そうだ。
 七万の命すら背追い遂げた男である。十人の命を身の内に抱いて生きていくことにも、きっと耐える。
 藺晨は笑って、甄平の顔を見た。
 「どうだ? 子供とお調子者とで、ちゃんと無事に連れて戻っただろう?」
 「まだ根に持っておいででしたか」
 甄平が、あからさまに嫌な顔をする。
 「当たり前だ。私は大いに傷ついたのだからな」
 大袈裟に嘆息してから、藺晨はふと二人に向き直った。
 「おまえたちは赤焔軍で育ったのだったな」
 「はあ」
 急に何を言い出すのかと、ふたりはいぶかしげな顔をしている。
 「なら、……長蘇が林殊を名乗れぬのは不満か?」
 いまいちど、二人が顔を見合わせた。
 そうして。
 「私たちにとって、宗主は宗主ですから」
 「小帥であっても宗主であっても同じことです」
 なんの屈託もなくそう言ってのけた二人に、藺晨は笑った。
 「好!」
 勢いよく、扇を広げた。
 それ見ろ、と思う。
 梅長蘇はやはり、自分の最高傑作だ。
 「很好!」
すっかり満足して、―――藺晨はゆったりと扇を動かした。



  ***



 「喝―――」
 飛流が、茶杯の乗った盆をずいと差し出してくる。
 近頃、茶を淹れるのが面白いらしい。
 相変わらずの不器用さで、盆は溢れた茶でびっしょり濡れてはいるが。
 うっすらと微笑を返して、梅長蘇は茶杯を手に取った。ぽたぽたと二、三滴盆で雫を受けてから、梅長蘇は茶の香りを楽しむ。
 「―――好香」
 そう言ってやると、飛流は嬉しそうに、ぶんっと頷いた。
 「茶を淹れるのが好きか?」
 その問いには、少し首をかしげて考えてから、飛流はやっと思い付いたようににっこり笑う。
 「蘇哥哥にだから!」
 なんの曇りもない明るい笑顔でそう返されて、梅長蘇は軽く目を瞠った。
 言葉を返さない梅長蘇に、飛流が不思議そうな顔をしている。
 梅長蘇は、目を細めた。
 「飛流は、蘇哥哥が元気になって嬉しいか?」
 「うん!」
 今度は、間髪を入れずに大きくうなづく。
 梅長蘇は破顔した。

 傀儡だったはずの梅長蘇は、いつの間に血の通った一人の人間となったのだろう。
 梅長蘇を通して遠い日の林殊だけを見ていたのは、ほかならぬ自分だった。ここにはこうして、そのままの梅長蘇を見てくれる人たちがいる。
 都に残してきた人々も、林殊だけではなく、たまには梅長蘇のことを、思い出してくれるだろうか。
 ―――景琰も。
 大嫌いだった謀士のことを、少しは懐かしんでくれるだろうか。

 林殊は充分に生きた。
 多くの友に支えられて、その生を全うした。
 梅長蘇もまた、慕ってくれる人々と支えあいながら生きていくのだ。

 目の前の飛流の笑顔が、一歩踏み出す勇気をくれる。

 ……梅長蘇の人生は、始まったばかりであった。

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